彼女はどこにでも居そうでどこにも居ない、例えるならそんな女の子だった。 高等部からの入校組らしく、周りのクラスメイトとは少し異なる雰囲気を持っていた。名前と顔が一致したのは高校3年生の春。クラス替えで騒がしい教室の中で、我関せずと本を読んでいる。手元からは『書を捨て、町へ出よう』の題字がちらりと見えた。 文化・芸術への興味や感度が高いのか、彼女の名前は年2回配られる「芸術感想文集」の常連となっていた。直感で物事の本質を捉える鋭さと、それでいて柔らかな文章の雰囲気。どんな子が寄せた作文なのだろう。勝手に興味を持っていた俺は同じクラスになったことをチャンスとばかりに、彼女に話しかけた。その度に何故か恐縮されていたが、もし機会があればもう少し近い仲になりたかった。彼女が読んでいた寺山修司の感想だったり、見えている世界や景色を彼女がどう表現するのか、知りたかった。 だけれど、高校の委員会やクラス会で彼女と重なる機会はなく、大学では進学した学部も違う。はやる心をただ持て余すばかりだった。「どんな女性がタイプなの?」そう聞かれるたびに彼女の影を思い浮かべたが、いたずらに時間ばかりが過ぎていった。もし再会できる日がくるのなら、後悔しないように彼女に気持ちを伝えたい。仕事で忙殺される日々を繰り返す中で、その想いは日に日に強くなっていった。 きっかけは、俺の昇進が内定し、業務量が一気に増えたため残業が続いた夜のことだった。 支社から届いた営業実績ファイルを開いた瞬間に「資料作成者:」の部分に目が止まった。メールの表題に記載された支社名と、その名前を何度も確認する。神奈川支社、さん。自分の記憶が正しければ書かれた名前の彼女は同級生のはずだ。しかし、同姓同名の可能性もなくはないので裏付けが欲しい。フロアでたった一人残された22時、勢いで携帯電話を取り出し、私用の電話をきめこんでいた。ああ、コールの機械音を聴いている時間すら惜しい。 「蓮二、さんって今何してるかわかる?」 「…確か商社に勤めていて、神奈川から出てはないとは聞いたが」 「ありがとう、また連絡する」 「――精市、」 やっぱり。予感が確信に変わった瞬間、友が何かを言い終える前に電話を切ってしまった。唐突な問いにも結論から端的な回答。我が友ながら仕事ができる。埋め合わせはまぁ、後日でいいだろう。こういう俺の身勝手さも長年連れ添った友人は理解してくれている。 若輩者が支社長を任されることは前例の少ない人事異動らしく、出来る限り配属先の希望は聞いて貰えるらしい。早速、翌日の面談では部長にエリアの希望を出した。「神奈川支社の配属を希望します。私は生まれも育ちも、神奈川ですので地域に貢献したいという思いも人一倍強い」 そして再開した彼女は、思い出よりもずっとずっと美しかった。 ◇ 返事を急かしたつもりもないが、映画祭デートから1週間明けた金曜日の夜に「良かったら仕事終わりにお茶でも」と声をかけたら彼女の顔は少し強張った。それでも「では、20時に藤沢駅の駅前で」と職場から3駅離れた駅を待ち合わせ場所に指定された時は心が跳ねた。 どんな言葉で伝えようか。どんなきっかけを作って彼女を誘おうか。散々悩んだが、とりあえず正攻法で映画に誘い、ストレートに気持ちを伝えることにした。彼女の耳まで赤くして驚く顔は可愛かったし、その後の場も気まずい空気にはならず、あの夜は健全に別れた。 あわよくば、とは淡い期待を抱いたものだ。 「かみさま、とは、お付き合い出来る自信がありません」 青天の霹靂。轟く雷鳴が聞こえた(ような気がした)。「敬語じゃなくていいよ、同い年だし、同じクラスだったんだし」と先週伝えた時には朗らかに口調を崩してくれたのに。あれはお酒の力もあって場が温まったからなのか。喫茶店での彼女の態度は会社のそれとまるで変わらない。 「かみ、さまって」 「幸村精市さんは、昔からずっと神様みたいな人です。テニス部で部長をされていた時も、支社長として赴任された後も。努力家で完璧で、それでいて愛嬌もあって、誰からも好かれてる。そんな雲の上の人と、私がお付き合いなんておこがましいことはできません」 一気にまくし立てた彼女は、言い切った後に大きく深呼吸をした。半分近く残っていた珈琲を勢いよく飲み干して、テーブルに丸められたオーダーシートを急いで引き抜き、立ち上がった。 とにかく今は彼女の足を止めることが精一杯だ。こういう時の己の冷静さと俊敏さには、たまに自分でも吃驚する。細い手首をおもむろに掴むと、急に触れられた彼女の身体がびくりと震えた。 「…待って、俺が神様じゃなかったら、望みはある?」 「な、くはない、のでは、ないでしょうか」 彼女は一瞬足を止めた。が、珍しく歯切れの悪い物言いをして、控えめに腕を払い、すぐに立ち去った。頭で反芻される言葉は、決して同級生に対してのそれではない。あくまでビジネスライクな、上司に対する発言であった。 残された珈琲はまだ温かいままなのに。気持ちは冷え切ってしまった。 俺は神様なんかじゃない。 遠い昔に月刊プロテニスで「今話題のニューフェイス、神の子!幸村精市」なんて特集を組まれた後は、うんざりした。大袈裟だよと笑っていたものの、茶化してくるクラスメイトすらおらず、中学生にしては大仰なその呼び名を誰も冗談として扱ってはくれなかった。接する態度が変わらないのは旧知のテニス部のみんなだけだった。 どうして一番に気になる君にもそんな風に思われるのか。「神様とは付き合えない」なんて、一番言われたくない言葉を、地雷を踏み抜かれた。 俺は俺だ。キャパ以上の仕事を与えられて奔走しているただの一会社員に過ぎない。どうしたら、ただ高校時代の後悔を引きずったままま君のことを諦めきれないちっぽけな男だと、「神様じゃない」とわかってもらえるんだろう。当たり前に違うのに、彼女がそう思い込んでいる以上、意識を変えることはできるのか。そんなのまるで、悪魔の証明じみている。 ただ、折角廻ったチャンスをここで諦めるわけにはいかない。 ◇ 「さん。この間の御礼、させてくれる?」 「おれい…」 「俺も考えたんだけど、支社長にコーヒー奢りっぱなしは良くないんじゃない?俺にも面子ってものがあるからね」 「そ、れは……ずるくないですか」 「ふふ、何とでも言いなよ」 月曜日、俺は立場を使う強硬手段にでた。そうだ俺は何もかもを思い通りにできる神様ではないのだ。職権でも何でも使えるものは全て使う。彼女が席を立った瞬間に先回りして給湯室へ向かった。直接話しかけたのは、対面だと逃げる隙もないだろうと踏んだからだ。 「金曜日の夜、空けておいてくれないか」 部活でよくやっていた様に、言葉に少しの圧をかけた。凄んだそれが効いたのか、彼女は「はい…」と頷いた。 ◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆ 「大事なことを言わないまま、話をすぐにそらされるのもどうかと思って」 「話をそらしてるつもりは、ないのだけど」 「だけど?」 「立場が違うから」 「そうかな」 「そうだよ。幸村くんはもうクラスメイトでもなくて上司だし」 「この場ではただの同級生だよ」 金曜日の夜に上司から呼び出しを食らった。 「ご飯でも食べに行く?」と誘われたけれど、私の記憶が正しければ目の前に立つこの人からの告白を、私は先週丁重にお断りしたはずだ。「今日は遠慮しておきます」と誘いをかわせば「話がしたい」と切り返された。結局は、近場の誰もいない小さな公園で缶コーヒーを片手に少し話をすることになった。 「ずっと伝えようと思っていたことをストレートに伝えたら、過程を端折ってしまっていたことに気づいたんだ」 「過程って」 「俺はずっと君のことが好きだったんだよ」 「えっと」 「聞いて。10年前に同じクラスだった時、伝えなかったことを後悔してたんだ、ずっと」 疲れ切った華金の夜に、どうしてこうも青春ドラマのようなやりとりをしているのか。それが傍観している立場ではなく、なぜ自分に対して起こっているのか不思議に思えた。なんで。 「私は、幸村くんがそんなにも思ってくれるに値する人じゃありません」 「俺も、君が思うような神様じゃあないよ」 「でも事実、みんな、あなたのことを神様だと思ってる」 「大袈裟だよ。でも俺も、さんがどう思おうと君のことを思ってることは事実だ」 前進しない押し問答がひたすらに続き、埒があかない。だからね、私があの幸村精市と付き合うなんて、荷が重すぎるんだってば。社内でのことを考えても曖昧にするのは良くない。ここはきっぱりと断るべきだろう。 「すみません。何度も言うように幸村くんみたいな雲の上のような人に、神様に、私じゃ不釣合いだから、もっとあなたに見合うような人と…」 「…いい加減にしてくれ!俺は本当に君が好きなんだ」 カランと手元の缶コーヒーが滑り落ちて、ガッと大きく効果音が鳴りそうな力で身体を引き寄せられた。ヒールでバランスが取れずにふらついた身体を支えたのは、彼の右腕だった。そのままに雪崩れ込んだ身を受け止めて腕を後ろに回される。これは、そう、抱きしめられているのでは…。逃がさないとでも言いたげに腕にぐいぐいと力が加わるので怖い。 声を荒げた幸村精市をみるのは初めてだった。 「ごめん」と少しして身を離された私は、何が起こったか未だに理解できておらず呆然としている。仄暗い街灯の明かりの下、彼の表情は怒りに震えているというより酷く傷ついた顔をしている。 傷つけたのは、私、なの? 「さんが、されて嫌なこともうしない、だけどそんな理由で振られるのは納得がいかない。俺は俺でしかないし、君が好きなままの、ただの俺なんだ」 「…」 「忘れることは出来ないと思う。申し訳ないけど、毎日顔を合わせる分、すぐに諦めはつきそうにない」 「週明けは出来るだけ普通に接するから、それで許してほしい。こんな話で悪かった。公私混同も甚だしい」 「帰りはタクシーで帰って、夜道は心配だから」 そう言って、まさかの万札を握らせてくる彼の振る舞いも、表情もまるで。 これは生身の人間の感情だ。 知らない間に私は彼の心を抉っていたのだ。 この人は。幸村精市というただの人だ。 「待って、あなたは、神様じゃ…ない」 今目の前にいるこの人は確かに神の子ではあるけど、神様じゃない。思い通りにいかないことに葛藤も怒りも覚えるただの人の子。妙にすとんと腹落ちした時には、身体が先に動いていた。 「…ッ」 「ご!ごめんなさい」 何を思ったか私は彼に口づけていた。それに気づいたのは彼が顔を真っ赤に染めて、口元に手を当てていたからだ。自分の唐突さが嫌になるけれど、神様どうか、こんな瞬間くらいは許されたい。 「…まったく、君にはかなわない」 @biwa. 神の子でも切羽詰まって、等身大でいてほしい( 2018/3 ) |