【attention】 ◆年齢操作、28歳社会人の設定 ◆視点切り替えが割と多いです ◆職業など、ねつ造要素があります 「俺と結婚を前提に付き合ってください」 ストレートにそう伝えられて、私は大層狼狽えた。頭が働かないのは嗜む程度に飲んでいるワインのせいか、ゴダールの映画を立て続けに2本も観たせいなのか。ワイングラスに視線を落としたまま、その時は一言返事をすることが私に出来る精一杯だった。 「…か、考えさせてください」 それが、先週土曜日の21時。 ◇ 約10年振りに再会した幸村精市は相変わらず天上の人だった。一応名の知れた商社ではあるが、私はエリア採用枠。神奈川の支社で細々と営業事務を務めていた私と住む世界が全く違う彼がまさか同じ会社に勤めていて、転勤を言い渡されていたなんて知らなかった。人事辞令なんて春が近いこの時期には形骸化されたもの。イケメンで大層やり手の若手が配属されると噂では聞いたものの、結局はフィーリングだ。なので出社されるまでは仕事の相性もわからないし、本人の顔を見るまでは事前情報で何らかのバイアスもかけたくない。 facebookを事前に詮索して「独身だって!」と騒ぎ立てる同期を横目に、私は辞令のPDFファイルすらも開かなかった。 「はじめまして、この度本社から配属された幸村精市と申します。若輩者の私が、皆様が日々業務で築いてくださっているこの支社を任されることになるとは、正直驚きと戸惑いで自分でもまだ自覚がありません。身の丈を超えた役回りだと恐縮ばかりです。すみません、私――俺を助けてください。恥ずかしながら右も左もまだわかりません。皆様からご教示いただき、この支社を支える一員になれるまではどのような状況にもめげません。なので厳しくご指導願います。」 「そういえば、私ごとではありますが私は生まれも育ちもこの神奈川です。立海大付属という学校でずっとテニスをしていました。なのでこの地には個人的な思い入れが強く――」 就任初日の彼の胸を打つ姿勢。真摯な言葉遣いとユニークを織り交ぜたスピーチは素晴らしいものだったのだろう。やり手で勢いのある若手が、東京本社からしたらこんな地方のちっぽけな支社の末端社員までいる場で深々と頭を下げた。気付いたら拍手喝采。御局様は一瞬で心を掴まれて笑みを浮かべていた。「若手が調子に乗って何を」と斜に構えていた社内の平均年齢をゆうに越えた先輩方も「俺が支えてやらないと」と鼻息を荒くして肩を鳴らしていた。 だけれど私は。途中からは目をそらし、もう何も聞こえていなかった。 ―幸村精市って、まじで、あの、幸村精市? 彼の名前を私の学年で、同じ学校に属していた仲で知らない者はいない。テニス部でずっと部長を務めていた伝説の人だ。とにかくテニスが強くて人望も厚い人だった。プロに移行するのではと噂までされていた人だったと思う。確か高3の時には一度だけクラスが一緒になった。数回声をかけられ会話した程度の、クラスメイトと呼べる仲にも満たない関係性だった。あまりに人間離れしたテニスの強さや難病からの奇跡的な復活劇で「神の子」と大それた二つ名で呼ばれてた記憶もあるが、その名を欲しいままにしている人に見えた。 私は親の願望のままに高校受験で立海に滑り込んだ。付属の高等部は肩身が狭かった思い出ばかりだ。中等部から出来上がった人間関係の輪に馴染んだり、独特の付属校の空気は苦手だった。はじめのうちは新顔に好奇心で話しかける子も多かったが、1ヶ月もすぎた頃には固まったグループのどこにも居場所はなかった。不便ではないし、何かに属したいわけでもなかったので、それについてはもう何も思わないけれど。人付き合いもほどほどに慣れた高校3年生にもなって、たまに垣根を超えて話しかけてくれた幸村精市の優しさは心に沁みた。本を読んでいた時は「何を読んでるの」、芸術鑑賞で観た映画の感想を述べた作文が密やかに校内表彰された時には「すごく良かった」とわざわざ感想を述べに来てくれた。この人はこんな末端のスクールカーストも全く違う人間にも分け隔てなく接する。人が良くて礼儀正しい。好感度ばかりが上がって嫌な気の全くしない人だった。 ◇ 28歳で係長から支社長への大出世。異例の抜擢ではあるがこの会社では出来上がった出世コースだった。地方の支社で経験と実績を積んで本社には業務成績というお土産を携えて帰還。無事に帰れたその暁には部長という役職が用意されている。ここで1年踏ん張れば、未来は約束されているのだ。ただそのプレッシャーは到底想像がつかない。最初の1週間、実際に彼は毎日遅くまで残っていた。日付が変わっても絶対に仕事や頼まれた事は後回しにすることはなく、遅くとも次の日には改善案や打開策が提示される。その仕事っぷりに非難をする者は早い段階で誰もいなくなっていた。 気付いたのは、この人は努力の人だということ。 営業事務、補佐という仕事の中で少なからず関わりがあってそこに気づくことができた。――2週間も経てばこの支社の業務の非効率は改善され、みんな影では幸村支社長を「神様」と崇めていた。「神の子」はここでも神の二つ名を欲しいままにしている。 ◇ 「懐かしいね、さんとずっとゆっくり話してみたかったんだけど」 気付いたら遅くなってしまっていてごめん。そう話しかけられたのは偶然残業が重なり二人で残っていた木曜の夜。私は仕事に一段落つけて、パソコンからログアウトし、ぼんやりと窓の外の疎らに光るビルの明かりを見やった時だった。 「幸村さん、私のこと覚えていたんですね」 たった一度、クラスが同じだっただけの同級生が私みたいなちっぽけな存在を覚えていてくれたことに驚いた。もう10年も前のことなのに。彼の記憶の片隅に私が存在しているなんて、まるで小さな奇跡だ。 「心外だな、勿論覚えているよ。二人しかいないんだから、もう少しカジュアルに話してくれてもいいのに」 くしゃりと笑った幸村精市の顔には少しの疲労が滲んでいた。長くウェーブのかかった髪の艶も、すらりと高身長な身体つきも、少し骨ばった喉仏も昔とちっとも変わらないのに、スーツは少しよれていて彼の忙しさを物語っている。その時に何を思ったか、私は考えるよりも先に口が動いていた。 「ご飯、食べに行きませんか?」 一瞬、彼の切れ長の瞳が大きく縦に開かれたが、状況も状況なので断られることはなかった。視線を液晶画面に移し「丁度日報を打ち終えたところで良かった」と彼はパソコンを閉じて立ち上がった。 ◇ 「あの幸村くんが、まさか同じ会社にいるとは思わなかった。です。」 「俺もまさか君と同じ支社に勤めることになるとは思ってなくて…おっと、敬語はやめて」 22時も回り、やっとこさ仕事を終えてクタクタになった二人の晩御飯は、少しくだけた空気ではじまった。仕事から離れれば彼も28歳の同級生だ。「気は使えないけど、それでもいい?」と職場近くのチェーン店に入る前に一言断られたが、全く問題はない。むしろコンビニ弁当で済ませようと思っていた晩御飯が思いの外、豪華になった。 「じゃあ、お疲れ様」 歓迎会は彼の忙しさに配慮して翌月に設定されていたし、新任支社長の多忙を無視して飲みに駆り出す輩もいないらしい。「支社の人と晩御飯は初めてだ」と彼が発したことに多少の申し訳なさと後ろめたさを感じた。引っ込み思案で積極性のない私が、どうして急に彼を誘えたかなんて自分でもわからない。疲れによる感覚の麻痺とお腹の減り具合。それから偶々会社に残っていたのが幸村精市で、会話がはじまったこと。ただそれだけの勢いだ。 「幸村くんは全然変わらないね」 「そういうさんは、綺麗になったね」 手をつけていたお通しの枝豆を思わず落としそうになったが、すんでのところで手元に留めた。 「ふふ、女性はあっという間に大人びて綺麗になるね」 それを何もしないで綺麗な幸村精市が言う?と思ったけど、一般論。女性という大きな一括りの一般論だから、胸を高鳴らせる必要もない。そもそも彼は営業畑の人間だったのだ。女性を喜ばせるリップサービスの一つや二つ、軽々とやってのける。本気にしてはいけないやつだ。私も社交辞令で答えるべく、ビールを喉に通しながら「ありがとう」となんとか愛想笑いを浮かべた。 「そういえば」 「なんでしょう」 「君、ゴダールはまだ好きかい?」 唐突な質問だったが、ジャン=リュック・ゴダールは好きなままだった。 高校の芸術鑑賞の時間に初めて観たフランス映画の『勝手にしやがれ』には衝撃を受けた。独特な撮影手法とすれ違う男女の模様に多感な高校時代は憧れを覚えた。その魅力をひとつひとつ噛み砕き理解するレベルには達していないが、それでもゴダール作品の面白さに惹かれ、監督作の数本はレンタルビデオで楽しんだのだ。確か幸村精市が声をかけてくれた一つのきっかけもこのフランス映画作品だった。私が思いのままに文集にぶつけた感想文を、彼はいたく気に入ってくれたらしい。 「すき、だよ」 「良かった!」 幸村精市はこの日一番に声をあげた。いつも穏やかな彼の声色が、急に少し高揚のある弾む声に変わる。仕事中は大人びて物静かに見える彼と違う表情を見るのは新鮮だ。 「良かったら土曜日に映画祭のチケットがあって」 「えいがさい」 「もしさんがゴダールが好きなままなら一緒にと思って」 「…え」 がさごそと、上質そうな革の鞄から彼が取り出したのは2枚のチケットだった。コンビニで発券されたであろうそのチケットには都内のミニシアターの名前が印字されている。手渡されたチケットをまじまじと見ると、発券された日付は1週間ほど前のものだった。 「い、いきたい」 「本当?」 「私でよければ、ぜひ」 そう返事すると、彼はゆっくりと胸を撫で下ろして「良かった」と誰に向けるでもないような言葉を発した。突然の週末の誘いで驚きはしたが、特に予定もなく、好きな映画をゆっくり観られるとなると嬉しい。 その後は他愛もない会話をして、10年前の高校時代に思いを馳せた。幸村精市から語られる名前は懐かしい名ばかりだった。あの頃から目立っていたスポーツ特待生のジャッカル桑原さんは家業を継いだとか、接点すらまるでなかった丸井ブン太さんは既に家庭とマイホームを持っているとか。真田さんと唯一私と生徒会関連で関わりのあった柳くんとは未だに隔月で会っているとか。 12時も回り、お開きになった後、「送ろうか?」と一緒のタクシーに引きずられそうになったが丁重にお断りをした。私の家とさっき話しの流れで聞いた彼の住むマンションは別方向だ。そして何より明日も仕事。送って貰って変な貸しを作ったり、顔を合わせて気まずくなるにはまだ早い。 「お疲れ様です支社長。明日も宜しくお願いします」 バン!と閉めたタクシーのガラス窓越しには少し不服そうな幸村精市の視線が見えた。疲れているとはいえど、彼は支社長としてのプライドや配慮を、送迎という形で見せたかったのかもしれない。きっと。 ◇ 金曜日は仕事に追われてあっという間に過ぎていった。そういえば昨日はあの幸村支社長に映画に誘われたのだったと思い出してもまだ現実味はない。それでも、昼休みにLINEを開くと「昨日はありがとう、土曜日を楽しみに仕事を捌くよ」とシンプルなメッセージが届いていて、木曜のあの時間が現実であることを裏付けた。そういえば、彼がタクシーに乗り込む前に連絡先を交換したのであった。 柄にもなく、翌日昼過ぎの待ち合わせに着ていく服を選んだ。やっぱりワンピースがいい。クローゼットから襟付きで比較的清楚に見えるワンピースを掴んで急いでアイロンをあてた。デート、と一瞬思ってしまうが彼は上司だし「内容が内容だから付き合ってくれる子がいなくて」との言葉をそのまま受けると幸村精市の趣味にただ付き合うだけのこと。学生時代に憧れていた雲の上の人と偶然が重なって一緒に映画を観に行くことができるだけのこと。宝くじのスクラッチで1万円が当選したくらいのラッキーなのだ。 ゴダールが好きだという共通点があって良かったが、そのゴダール様に失礼のないように今晩は早めに寝よう。明日は映画に集中できなかったら恥ずかしい。 ◇ 当日、待ち合わせて入館したミニシアターの座席を見て驚愕した。他でもない、あてがわれた座席は所謂カップルシートだったからだ。 「あの、さすがに席変えてもらいますか?」 小声で口元に手を当てながら掛けた声とわたしの戸惑いは、幸村精市には届かなかったようだ。 「もう始まるね。さんは奥にいきなよ」 一方で強くはっきりと言葉を放った彼に、上演が差し迫った今は従うしかない。暗くなり非常灯も消え出したシアター内で有無を言わさず私達は一つのソファに座らされる羽目になった。 約3時間半に渡り、映画の内容は全く頭に入らなかった。 2本立て続けの上映で体力と集中力が続かなかったこともあるが、距離が、近すぎるのだ。時折肩や腕に触れる幸村精市の体温にいちいちドキドキしてしまって、ゴダールには申し訳ないが映画どころの話じゃなくなってしまった。 シアターを出る前は雲ひとつない青空が広がっていたのに、一歩外に出た時にはとっくに日は沈んでいた。「お酒を飲んで軽く感想でも」と誘われるがままに小さなワインバルに入店した。 彼が頼んだグラスワインと同じものをオーダーしてやっと一息ついた。運ばれてたピノ・ノワールを一口口に含んで緊張が解けた私はぼそっと一言つぶやいた。その独り言を彼は聞き逃しはしなかった。 「…デートみたい」 「あれ?俺はそのつもりだったけど」 「彼女、いると思ってたんですが」彼女なんて選びたい放題で一緒に映画を楽しむ候補はごまんといるのでは、そう思ったのが半分、社交辞令がてらが半分でそう尋ねたら「仕事が忙しくてさ」と肩を竦めた。仕事が忙しいのは十二分に理解しているつもりだが、だから彼女がいないとは。私の中の幸村精市像とは結びつかない。だけど、真面目で誠実な彼は嘘はついていないはずだ。 「今日は付き合ってくれて嬉しいよ」 花が溢れるような笑みで言われれば胸が高鳴らないわけがない。 彼のお勧めのバルはつまみからデザートまで何を頼んでも頬が落ちるほどに美味しかった。少しカカオが香る食後のコーヒーまで、丁寧であたたかな味わいだ。簡単にゴダール映画の感想や休日の過ごし方など、同じ職場に勤める同い年の男女として当たり障りのない会話をした。時計の針はもう21時を回っていて、この後のことを考えると少しそわそわした。この間のように終電が近い時間でもないし、もう一軒誘われたらどうしようか、彼女はいないと言えど、あまり休日に上司と深い時間までいるのも良くはない。気もそぞろに落ち着かない私に爆弾が落とされたのはその時だった。「あのさ、今日は言いたいことがあって」 「俺と結婚を前提に付き合ってください」 「…か、考えさせてください」 土曜日の21時。そして、話は冒頭に戻った。 一体何をどうやって家までの帰路を辿ったか、私の記憶は定かではない。 @biwa. 好きな幸村キャラソンの歌詞を沢山つめこんでます ( 2018/3 ) |