「風邪です」

廊下で遭遇した途端、眉間にしわを寄せて。あからさまに不機嫌そうな彼女のマスクに思わず軽く噴き出した。

自分と大分離れた小さな(と言えば本人は起こるのだが)彼女には、どうしても頑張り過ぎる癖があり、案の定今回もその癖のせいで風邪を引いた。彼女が自分自身様々なことを背負いすぎたゆえの体調不良であって、無理をし過ぎであることは周知の事実であるのに、そのことをわかっていないのは当の本人だけだ。


「よう似合っとうよ」

「いや、マスク似合っても意味ないから!」

他人に努力を見せないように一生懸命な姿が可愛らしくて、ついついいつもからかってしまう。何事にもこれといった執着がなくて淡白に見られがちな俺は、彼女を素直に褒めてやったり、励ましの言葉をかけるには照れが生まれてしまってきちんとそういった言葉を伝えることが出来ない。しかし、自分以外の対象のために頑張る彼女に当然、少なからずの嫉妬は覚えるワケで。

(何でこんなに意地悪したくなるんじゃろうな)


「なぁ、、3限サボらん?」

「…は?ちょ、まさ、は、」


耳元から白いマスクのゴム紐に触れて剥いで、そっとキスを落として、誘い言葉に拍車をかけた。「こういうこと出来るんは彼氏の特権やろ」と言うと困ったように彼女が顔を赤くする。

「まさ…」
「冗談じゃよ」


このままを困らせたい気もするが、急な動作に驚いて反論出来る状態ではない彼女を虐めるのは気がひける。「時間がある時に、また今度な」と、またマスクのゴム紐を熱くなった耳にかけて、強張る彼女に一言。

「肩の力、抜きんしゃい」

ずるい俺は、かけることのできる最小限の言葉だけかけて、反撃の余地を与えることなく彼女に背を向けた。


a swindlers' trick

[side trickstar]



(余裕ぶっている割には余裕がないことなんて既に自覚している)










「風邪です」

昨日から引き始めた風邪が思いのほか悪化して、仕方なしに着けてきたマスク。こんな姿を彼に見られたら、からかわれるに決まっている。

今日ばかりは…と思っていた矢先の彼との遭遇。会いたい時には会えなくて、会いたくない時ほど会えてしまう。いっそこれは恋愛のセオリーね。
少しばかり背の低い私は、いつも雅治を見上げて、彼の目に今日の自分の疲れ切って死んだような顔は不細工に映るんだろうなあと思った。すごく、いやだ。


「よう似合っとうよ」

「いや、マスク似合っても意味ないから!」

ほら、やっぱり。からかうような口調と憎たらしいくらい余裕な笑顔。付き合い始めた当初はいつもこの顔に悩まされて、掴みどころのない雰囲気に戸惑っていた。けれど、自惚れではないが最近、少しだけわかる。彼はきっとわざとこういう態度を取っているのだ。
自分の疲れて弱った部分や、努力する姿を他人に見せるのが嫌いな私への配慮に違いない。その証拠に、雅治は別れ際に自分の言葉を飲み込む。
難解な詐欺師の彼から私が見つけた唯一の癖。きっと彼は自分の言いたいことを殺している。

「なぁ、、3限サボらん?」

「…は?ちょっ、まさ、は」

…だけど、今日は違った。
いつもなら飲み込まれる筈の一言と、耳元にかかる彼の指。かすかではあるが震えているそれに私が気付かないはずがない。「こういうこと出来るんは彼氏の特権やろ」なんて囁いて、そんな風にキスされると困ってしまう。

「まさ…」

「冗談じゃよ」

酷い。こんな手を使われると反論できないじゃないか。
「時間がある時にまた今度な」と言った彼が直視できなくて視線をそらす。キスをした後、泳いだ目線の終着は彼の右顎にあるホクロ。彼の特徴ともいえるそこに、いつも目線は辿り着く。

「肩の力抜きんしゃい」

そう言葉を残して去っていく彼の後ろ姿を見ながら、一生ずっと、彼のペテンにならかけられても良い…なんて思った。





@biwa. 当時仁王が好きなものすごい頑張り屋の友達を思って書いた( 2008 )