溜まっていた大学の課題も終わり、バイトとの合間を縫って久し振りに精市の家を訪ねることにした。ピンポーンと鳴らしたベルにガチャリと開くドアの音。出迎えたのはグレーのセーターに赤縁眼鏡をかけたラフな格好をした彼だった。彼が眼鏡をかけているのは勉強中であるという証拠だ。 「久し振り。元気にしてるかなぁと思ってイキナリ来ちゃったんだけど」 「…来るなら連絡くれれば良かったのに。今散らかってるし、何もないよ?」 ああ失敗したなぁ、と感じた。立海大に上がってから私の通う科より数倍難しい科に通うことになった精市は毎週レポートや研究に追われ、忙しいのだ。普段から出不精な上に学業が加わり更に出不精になった精市を放っておくと平気で1ヶ月連絡が来ない。だから私の方からマメに精市のアパートを訪ねるようにしていた。それもなるべく忙しい彼に負担のかからないようにだ。しかし今日は本当に失敗した。彼の目の下にうっすら浮かんでいるクマが彼の多忙さを何も言わずとも物語っている。部屋に入ってもどこか気まずい。 「気がきかなくてごめん、今コーヒーしかないけど飲む?」 「いいよ、自分でやるから!それより勉強しててよ」 「…レポート書いてたのバレた?」 「眼鏡、掛けてるし、顔疲れてるし」 「折角来てくれたのに悪かったよ」 「いいってば私が勝手に来たんだしさ。何か手伝えることがあるなら言ってよ」 「助かるよ…じゃあコーヒー、淹れ直してもらえるかな」 精市の好きな水色のマグカップを受け取って台所に立った。自分は料理がとりわけ上手いわけでも家事が出来るわけでも無い(むしろそういう事は精市の方が上手い)。だから彼には今自分の出来る精一杯の事をしてあげたいと思った。もちろん、ずっと会えなくて寂しかったり二人でいるとどうしても彼に構ってもらいたかったりで、レポートや学業に対する無意味な嫉妬はある。それに出来るものなら早く切り上げて私と向き合って欲しいと思うわがままな気持ちもある。でもそれを私が望んだせいで精市の評価が下がるなんて嫌だった。 精市の入れるコーヒーは少し苦い。それはきっと彼が睡魔と闘うために無意識にとっているクセのようなものだろう。その味を真似てコーヒーメーカーに水を注ぐ。 そっと精市の机にマグを置いたら、彼はしっかりと目線を合わせて「ありがとう」と言った。私は彼のこういう律儀なところが好きだ。 「退屈だったらそこら辺の本読んでて良いよ」 ソファーに座ってぼうっとしていると彼にそう言われた。山積みの難しそうな本の山の中から一冊取り出してなんとなくページを捲る。ドストエフスキーの『罪と罰』。そういえば高校生の冬に面白いから、と精市に勧められて借りてはみたものの、最初の数ページでダウンして結局」よくわからないまま彼に本を返した。本は好きな方だったけれど私が読んでいた類の本は精市の好きな哲学的といった分野のものではなく、普通の恋愛小説だった。 『自分の無気力と不決断に対して、あらゆる自嘲の独白を繰り返しながら、いつのまにやらその『醜悪』な空想を既に一つの計画のように考え慣れてしまった。そのくせ相変わらず、自分でも自分を信じていなかったのだが…今も現にその計画の瀬踏みをするために出かけているのだ。で、彼の胸騒ぎは一歩ごとにはげしくなっていった』 少し読み進めたが、大学生になってあの頃よりも少し歳をとった今でさえ、ドストエフスキーが何を伝えようとしているのかはさっぱり分らなかった。 『人間て卑劣なもので、何にでも慣れてしまうものだ。彼は考え込んだ。「だが待てよ、もし俺がまちがっているとしたら」彼はわれともなくふいにこう叫んだ。もし本当に人間が全体に、つまり一般人類が卑劣漢でないとしたら、ほかのことはすべて偏見だ、つけ焼刃の恐怖だ。そして、もういかなる障碍もない。それは当然そうあるべきはずだ!…』 読んでいくうちに頭がボーっとなる。 やっぱりこの手の小説は自分には向かないと、落ちていく意識の中で感じた。 「ん…」 パチリと目を明けると白い天井が見えた。眠っていた…?背中に感じるソファーの柔らかい感覚と肩まで丁寧にかけられた毛布が気持ち良い。ここどこかなとぼんやり考えているうちに意識が戻る。 「せ、精市!」 「うわぁ、何っ?びっくりした…」 びっくりするのは私の方だ。何で寝てしまったのか全く分らない(きっとドストエフスキーのせいだと思うけれど)。精市が寝る間も惜しんでレポートを書いていた間に呑気に昼寝なんて、無神経にも程があるのに、彼は私を気遣って毛布を掛けてくれたのだ。 「叩き起こしてくれたら良かったのに」 「いや、あまりにも気持ち良さそうに寝てたから…」 疲れているというのに精市の表情は柔らかい。そしてその彼の手に握られた本を見てはっとする。 「それ…」 「懐かしいなと思って。…読んでたら寝ちゃったんだろ?」 「『今すべてが一変してはならぬ法は、無いではないか』っていう一文が好きでさ、高校の頃よく読んでたの思い出したよ。レポートも終わったことだし、読み直してみるのもアリかな」 面白がって本のページをパラパラめくる精市の姿にほっとした。そっか。彼はやっと多忙から(少しの間だけど)解放されたのだ。純粋に私も嬉しい気持ちになった。 「あ、のさ…ごめん、私頑張ってる精市の横でぐーぐーと…」 「それは良いんだけど、俺も悪かったよ。つい引きこもりがちになっちゃって」 せめてもの償いに、と精市が続けた。 「どこか一緒に出かける?」 「いい。ここで二人が良い。」 「そっか。じゃあ何かしたいことは?」 「……精市は?」 「何でそこで俺に振るかな。俺は今日はとことん付き合うよ」 「でも特にしたいことって無いし」 抱きしめて欲しい、触って欲しいなんて言えたらどんなに楽だろうか。思っていても遠慮が邪魔をして言えない。口ごもる私を見て精市が壮大な溜め息を吐いた。 「残念だな、俺はとしたかったんだけど」 もう随分会ってなかったからさ、と照れる様に付け足して微笑む彼の全てがとても愛しいと思う。そんな気持ちからか、反射的に声を張り上げて言った。 「わ、私もしたい!」 顔が赤く染まった私に精市は返事の代わりに眼鏡を外してキスを落とし、「続きはあっちで」と寝室を指差して笑った。 BABY I LOVE YOU @biwa. 疲れていらついてる幸村精市is性癖( 2009 ) |